「全身麻痺のシングルマザー」 人生奮闘記。かな?


by jibundenaiwatasi
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カテゴリ:エッセイ進捗・結果( 203 )

その先へ。選外作品(^^;

「チャレンジ。からの迷走」
二年前、私はこのタイトルでNHK障害福祉賞の優秀賞を受賞した。
エッセイで入賞さえすれば道は開けると思っていた。授賞式でのアドバイスを元にハローワークへの登録を済ませ、障害者雇用枠での求人を調べた。在宅ワークを基本にした求人がいくつもある。「これは!」と、喜ぶのもつかの間。よく目を通して見ると、1日4時間程度のパソコン入力が必要だった。平日まとまった時間が取れないため、土日にその分を回せたらと考えたが、そう都合よくはいかない。身体にハンディがあるだけではないのだ。ハンディをカバーするための訪問介護を受けなければならず、好きな時間にパソコンが打てるわけではない。ベッドから車いすに移るにも人の手を借りる。乗ったら必ず戻らなければならない。ヘルパーさんの勤務時間は限られている。私の自由になる時間もまた、思った以上に少なかった。気持ちばかりが空回りする。

「クラスメイトはお母さん」
私には二人の息子がいる。
中学3年生になる次男は学校へ行っていない。入学してまもなく、担任の先生からの不公平な指導と、友達からのからかいが原因で行けなくなってしまった。部屋に引きこもり、昼夜逆転の生活。学校や先生を恨み、友達を憎んだ。母親が車いすであること、母子家庭であることを嘆いた。「どうして、どうして、どうして!」と。そして行き場のない思いは、「僕なんて生まれてこなければよかった」と泣き叫んだ。母親として、心臓がえぐられる思いだった。
今までも苦しいことはたくさんあった。あったけれど乗り越えてきた。前だけを見て、一生懸命生きてきた。一生懸命生きさえすれば子供たちに伝わると信じていた。心の悲鳴を吐き出した次男。今、彼を支えられるのは私しかいない。吐き出せるだけ吐き出させよう。内に秘めて悩むよりずっといい。どんなに小さな不満でも、ひとつ残らず吐き出させよう。彼の苦しみ、悲しみ、怒り、不安etc……。彼自身も溢れ出る感情に戸惑っている。言葉にならないときにはティッシュやスリッパが飛んできた。もちろん避けることはできない。できないけれど、あたっても痛くないものだけが飛んできた。彼はわかっていた。だから私も逃げなかった。信じていたから。暴れて騒いでも解決しない。けれども行き場のない思いを抑えることもできない。抑える必要もない。口では文句や不満をぶつけながら、母親として必ず受け止めてくれるという安心感。何があってもどんなときも、私は彼の母なのだ。
毎朝、手が痺れるまで電話のベルを鳴らす。いくら呼んでも起きない。長男が呼びにいっても、ヘルパーさんに声をかけてもらっても、一向に起きることができない。私の生活も、週3回の訪問看護や往診で、午前中はほとんど車いすに乗ることができない。午後になりようやく車いすに移り2階へ行く。「起きなさい。ご飯食べなさい」扉をドンドン叩いた。「うっせーな」と扉をバタンと閉められても引き下がらなかった。昼夜逆転だけは見過ごすわけにはいかない。手が赤くなるまで叩き続ける。「夜はちゃんと寝て、朝起きること。ご飯を三食べること」根比べだった。「学校へ行きなさい」でもなく、「勉強しなさい」でもない。ご飯と太陽が大切だった。来る日も来る日も呼び続けた。段々と「めんどくせーなー」と、部屋から出るようになった。会話もポツリポツリと戻ってきた。
ある日の夕食後、散歩に行こうと彼が言った。しかし半年以上引きこもるようになり、人に会うのが怖くなっていた。今は生活のリズムを戻すことに重点をおき、夜の散歩から始めた。夜なら人に会わなくて済む。外は寒い冬。マフラーをぐるぐる巻いて外に出た。月明かりと白い息。二人だけで歩いた。「あのときさ、……」次男が口を開いた。感情的ではなく、ゆっくりと自分の思いを話しはじめた。私は嬉しさで声が震えそうになるのを必死でこらえた。
それから毎晩散歩に行くようになった。お父さんとのことや車いすになったこと。次男が生まれてきてどれほど幸せで助けられていたのか、その名前の通り、みんなの希望の光だったことなど、毎日毎日二人だけの時間。思い出話をしていると、時おり次男がクスッと笑う。彼の笑顔が帰ってきた。
迷走から一年が過ぎた頃、我が家には家族団らんが戻っていた。「あのとき」はもう、思い出として笑い話になっている。次男は学校へは行っていない。けれども、新しく担任になった先生が、月に二、三回、様子を見に来てくれている。雑談のなか、少しずつでも数学や漢字の勉強に付き合ってくれる。先生が来る日、次男は必ず掃除機をかける。その音が何とも心地よい。半年先には中学を卒業する次男。今の目標は通信制の高校に進学を考えている。その高校は、生徒一人一人の意見を尊重し、様々な体験やふれあいの中で、人や社会と交わることに重きをおいている。
二年半、クラスメイトはお母さんだった。それも一つの思い出だ。長い長い人生のほんの僅な時間。ゆっくり進めばいい。迷いながら、悩みながら、自分の道を歩んでほしい。道は一つではないのだから。

「障害者が親を介護する」
一難去ってまた一難。人生、苦もあれば楽もある。とは言うものの、どうにも苦の割合が多い気がするのは私だけなのだろうか。
私には77才になる母がいる。ほんのいっとき同居した。「お母さん一人じゃ心配でしょ」離婚した夫の提案だった。しかし、同居してすぐに夫のうつ病のことが母の知るところとなった。母にはうつ病が理解できず夫を罵った。私は家族を守るために実家をあとにした。そんな矢先の事故だった。夫のうつ病を気にするあまり、自分の体調は二の次、三の次となり、知らず知らず患っていた胆石や椎間板ヘルニアを、痛み止めでごまかす毎日だった。事故のあと、「もっと早くに病院を受診していたら事故にならなかったかもしれないね」と、何度も言われた。私もそう思う。しかし、うつ病の夫に幼子を預けて病院へは行けなかったのだ。運命だと思って受け入れるよりほかない。そして離婚もまた、運命なのだろう。
全身麻痺にはなった私に、母は「役立たず」といい放つ。仕方がない。事実なのだから。車いすになった私に、実家へ近づくことを許さなかった。近所の人に、車いすになった私を見られたらみっともないらしい。子供たちを祖母の家に連れて行くにも、実家から離れた場所で車を降り、ヘルパーさんに送ってもらった。そんな生活は10年続いた。私が車いすのまま実家に立ち入ったのは、母が腰の手術を受けてからだ。さすがの母も術後の痛みに苦しんでいた。トイレひとつとっても、人の手を借りて車いすで行かねばならない。「あんたはよく、一日中車いすに座っていられるね」ほんの少し気の弱くなった母がポツリと言った。退院に向けての準備が始まった。自宅に戻るために、ケアマネージャーやヘルパー会社、住宅改修業者との打ち合わせに出席する。思った以上に決めることが多い。自分の生活でさえ手一杯だった。そこに加えて親の介護。いくら人の手を借りても考えることが山ほどあった。
恨みが消えたわけではない。憎んでいないと言えば嘘になる。「私は知らない」そう言うこともできた。けれども、私は母を見捨てることはしない。なぜなら、私は子供たちの母だからだ。彼らの前で、実の親を見捨てるような人間にはなりたくない。そんな背中は見せてはいけないと思った。
母の入院で一番がんばってくれたのは次男だった。自分が苦しんだ分、彼は人を思いやることのできる優しい人に成長した。もちろん長男も、忙しい学校生活の合間に助けてくれた。私は一人ではなかった。頼もしく成長した息子たちのおかげで、なんとか乗りきることができた。
車いすの生活になって十四年。今までは一人必死で走ってきた。幼かった子供たちも、それぞれ高校三年、中学三年生になった。どうやら守られているのは私のようだ。
人生の楽が巡ってきたのかもしれない。
母の新たな生活が始まった。
すっかり元の勢いを取り戻し、厳しい言葉を私に浴びせてくる。それが母の元気のバロメーターなのだろう。しんどいけれど受け入れるよりほかない。とは言え、あまりにもひどい時には少しだけ距離を置くようにした。私はサンドバッグではない。いくら受け入れると言っても、私の心がボロボロになっては元も子もない。この年になり、ようやくそのことを学んだ。何でもかんでも頑張ればいいわけではない。ほどほどにすることが身を守る術なのだ。
ほどほどに。ほどほどに。

「二度の脳卒中」
腰の手術のあと、母は二度の脳卒中を起こした。一度目は脳出血。二度目は脳梗塞。元々糖尿病の持病もあり、なるべくしてなった感じだ。幸い発見が早かったおかげで、大きな後遺症もなく済んだ。脳出血のあと、私は毎朝安否を確認する電話をかけていた。その日も普通に会話していたが、デイサービスの途中、ろれつが回らなくなったと連絡がきた。急ぎ車を手配して迎えに行き、その足で病院へ向かった。結果は脳幹梗塞。ヒヤリとしたが、早期発見が功を奏した。とにかく運が良かった。1週間入院して無事退院。腰の手術の時に比べると、ずいぶん気弱になったのだろうか。「ありがとう」という言葉が増えた。以前は、穏やかに、心安らかに暮らそうと言っても「やだね」と、息巻いていたのが嘘のようだ。母も年を取ったのだろうか。それとも不発弾のようにくすぶっているのだろうか。どちらにせよ、「ありがとう」は素直にうれしい。子供たちも精一杯おばあちゃんを助けてくれる。私の選択は間違ってなかった。

「その先へ」
二年。たった二年が怒濤のように過ぎていった。私のチャレンジも現在進行形だ。全身麻痺で働くことは難しいことかもしれない。障害の程度や置かれた環境など、ハンディだらけだろう。だからと言って立ち止まりたくはない。迷走に迷走を重ね、まだ何も成し遂げていないけれど、それに劣らない人生の宝物を手にした。明日はどうなるかわからない。だからこその今日なのだ。
私は今日を生きている。
その先へ向かって、今日を精一杯生きている。






by jibundenaiwatasi | 2018-11-07 04:10 | エッセイ進捗・結果 | Comments(0)

第53回NHK障害福祉賞

二年ぶりの応募です。
スマホで4,000文字程度
書きました。
清書して書留で郵送。
タイトルは「その先へ」
とりあえず、書けたことに満足。


by jibundenaiwatasi | 2018-07-31 09:53 | エッセイ進捗・結果 | Comments(0)

1年ぶりのエッセイ。

しばらく書いていませんでした。
10作品の入選のあと、
何だか自然と文から離れていました。
それが、母の入院をきっかけに
左手が動いたのです。
締切の三日前。
まだ、清書は終わっていませんが、
何とか間に合いました。



by jibundenaiwatasi | 2018-07-29 02:41 | エッセイ進捗・結果 | Comments(0)

おりがたや~。

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by jibundenaiwatasi | 2017-10-26 20:22 | エッセイ進捗・結果 | Comments(0)

賞状と賞金。

届きました。(●^o^●)わ~い
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by jibundenaiwatasi | 2017-10-25 19:52 | エッセイ進捗・結果 | Comments(0)
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今年2度目の朗報です。
5月に応募したエッセイが
3位に入りました!

6月から咳に悩まされ、
最近では風邪に苦しみ
まったく作品を
書けずにいました。

そこへ届いたひさしぶりの郵便物。
最優秀賞には及びませんが、
トータル10作品の入選には
到達しました。

 ✏エッセイ 入賞✏
①優秀賞 読書の街八王子 
②優秀賞 看護エピソード
③3 位    言葉にまつわる論文
④佳 作    今は亡きあの人へ
⑤佳    作    愛の詩
⑥入 選 愛顔あふれるエッセイ 
⑦会長賞 志エッセイ     
⑧優秀賞 NHK障害福祉賞
⑨佳 作 家の光読書エッセイ
⑩3 位 鉄身協懸賞論文 


体調不良を改善しない限り
次回作は厳しいですが
焦らずに進んでいくつもりです。

ひとまずホッ。



by jibundenaiwatasi | 2017-10-22 19:41 | エッセイ進捗・結果 | Comments(2)

愛顔感動ものがたり。

体調悪く
2ヶ月ぶりのエッセイ。
800文字
「えがお」

by jibundenaiwatasi | 2017-07-30 20:02 | エッセイ進捗・結果 | Comments(0)

鉄身協懸賞論文。

これまた3年ぶりの応募。
テーマは、「明日の福祉」
【オレンジリング】3600文字
〆切2日前 投函。

今月までの応募はこれで終わり。
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by jibundenaiwatasi | 2017-05-29 13:35 | エッセイ進捗・結果 | Comments(0)
4,000文字
「勲章」
〆切1日前、何とか間に合った。

by jibundenaiwatasi | 2017-05-23 11:40 | エッセイ進捗・結果 | Comments(0)

私の転機エッセイ。

「兵糧攻め」、800文字
5月20日 メール送信

by jibundenaiwatasi | 2017-05-20 19:51 | エッセイ進捗・結果 | Comments(0)